2007.7更新 |
フランソア玄関 |
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西木屋町の四条小橋を下がったところに「フランソア」という喫茶店があります。創業は昭和九年、立野正一という画学生が造ったそうです。現在は入り口から奥まで客席が馬蹄形に並び、中央部が厨房等になっています。店は朝10時から夜11時まで開いていますが、奥側は午後(10時半には閉められる。)にしか開かれません。でもこの店のルーツは奥側にありました。 |
喫茶経営は生活のため | |
昭和22年に奥側の部屋で本屋(ミレー書房)を開店させたところ、元々社会主義運動をしていた正一さんですので、普通の本屋さんにはないそういう類の本を集めたことにより、京大や同志社などの先生方が多く来られるようになり、噂を聞きつけて学生さんも多く来られるようになったそうです。ミレー書房で本を求めて、隣のフランソアでお茶を飲む、というパターンが定着し、フランソアの客層も教授や学生などのアカデミックな雰囲気になり、その頃は、学生たちの議論が絶えなかったようです。 そのミレー書房も店長が三月書房(現寺町二条上)を開店するということで辞めたのをきっかけに、他の団体に権利を譲渡し河原町蛸薬師西に移転しました。その後、表と奥の部屋を一体化させ、現在の形になったそうです。 |
画廊のような店内 | |
表の部屋には他にもジャン・コクトーの自筆の手紙があったり、珍しいものも何気なく飾ってあります。奥の部屋はちょっとした画廊の雰囲気で、ピカソのリトグラフのNo.1があったり表の部屋とはまた違った感じになっています。因みに、奥の部屋は禁煙となっています。喫茶店でも禁煙の店は多くなりましたが、このようにまったく区切られた場所を禁煙室として提供されているのは珍しいのではないでしょうか。この喫茶店を愛した嘗てのお客さんの中には、桑原武夫さん(故人)、今西錦司さん(故人)、貝塚茂樹さん(故人)、多田道太郎さん、鶴見俊輔さんなどがおられ、その当時の様子が眼に浮かびます。 そして、実はこの店の表の一角で高山氏の京都市長選挙出馬が決まったというエピソードも残っていますが、当時の関係者がすべて亡くなっておられますので、確認できないのが残念です。 昭和11年頃に戦時中のレジスタンス運動の一環として、「土曜日」という雑誌を正一さんたちが中心になって発行していたことがあり、その「土曜日」という雑誌はフランスの人民戦線の「金曜日」という雑誌に影響を受けたもので、それこそその当時の民主的な方をはじめ様々な方が投稿されていたようで、中には映画評論家の淀川長治さん(故人)の名前もあったそうです。ところが、内容が戦争反対の啓蒙にあったものですから、9カ月ほどで発行停止になってしまいました。その頃は、その雑誌の主だった方たちがこの店に集まって議論され、この店だけではなくほかの喫茶店などでも一部いくらで販売していたといいます。 昭和40年代頃までは大学教授や学生たちで賑わっていましたが、今はお客の雰囲気が大分変わってしまったそうです。 |
コーヒーはフレッシュ入り | |
創業者の立野正一さんはすでに他界され、現在は奥さんの留志子さんが経営者となっておられます。もっとも、正一さんは開店当時から、喫茶店の経営にはほとんど参加せず、経営のほうは奥さんに任せ、社会主義運動を中心にされていたそうです。その留志子さんも88歳という高齢からか腰を痛められ、今では娘さんの今井香子さんが実質の経営をされています。 |
喫茶築地 | |
古くから今の地にあり、店の雰囲気は昔のままなんですよ。 |
全てはおじいさんの趣味から | |
店の構えはパブを思わせるような感じで、事実外国の方などがビール、ビールといって入ってこられる方もいらっしゃるとか。確かに、入口の扉は西部劇のバーの入口みたいになっています。店内に入ると、所狭しといろんなアンティークグッズが並べてあります。「これらは全て創業者のお爺さんが趣味で集めたものなんです。」と、現在の経営者である原田雅史さんはおっしゃいます。特に時計が多く何台もの時計があり、実際は動くらしいのですが全て止めてあるそうです。 二階には大きな古時計があり、百年ほどの歴史があるそうです。「大きな古時計」そのものです。こちらの店では午前中は大体一階だけで営業しており、混んでくる午後二時頃から二階を開けるそうです。営業時間は午前11時から午後11時までとなっています。元々二階は従業員の宿泊所になっていたものを昭和27、28年頃に今のように店舗として活用するようになったそうです。 |
ウインナコーヒーが基本です | |
なんと言っても、ゆったりと流れる時間を見つめることができる、いわば都会のオアシスのような場所なのです。 |