2006.10更新 |
今回の老舗訪問は、シリーズで初となる造り酒屋の「キンシ正宗」さんを訪ねてきました。 「キンシ正宗」さんは、若狭出身の初代松屋久兵衛が天明元年(1781年)、堺町二条上ル亀旭町に造り酒屋を創業したことに始まります。 この地には『桃の井』と言う名泉があり、当時はその水を利用して酒造りをしていたようです。明治一三年(1880年)に酒造りの本拠は伏見に移されましたが、今でもこの地の水を利用して『地ビール』造りが行われています。 「キンシ正宗」さんの「キンシ」と言うのは金鵄勲章(きんしくんしょう)から採ったもので、その昔金鵄のデザインとともに権利を買い取ったそうです。 現在、建物は堀野記念館として一般に開放されていますが、隣接して地ビールエ場がつくられており、こちらでは新鮮なビールが造り続けられています。 また、この堀野記念館は京町家をそのまま保存されたもので、造り酒屋時代の道具類が展示してあったり、職人の寝所などがあったりします。その造りは表に現れない贅沢な建材が使用されており、一見の価値はあると思います。 敷地中央にある『挑の井』は、現在でも毎時三トンの水が常時湧き出ており、会員制で地域の人が汲みに来られていました。 |
高級だった日本酒 | |
編集部(以後「編」) 早速ですが、創業者の松屋久兵衛さんと現在の社長さん(堀野さん)との関係はどうなっているのですか? 田中部長(以後「田」)私共の聞いておりますのは、松屋から堀野まではずうっと繋がっているということで、どこかで堀野の姓を名乗ったか、どこかで養子縁組をしたのではないかと思いますが、定かではありません。店は堀野久蔵が大きくしたのですが、明治の二八年頃に舞鶴までの鉄道敷設のためにその久蔵が尽力をしたという記録が残っています。 編 その頃から相当な名士だったのですね。 田 そうですね。酒屋仲間としては、月桂冠の大倉酒造さんなんかと一緒に大きくなっていったんだと思います。灘や伊丹から船で酒を運んでいた頃、伏見からも運ぶようになり淀川近くのマーケットが開けていき、酒屋さんが増えていったのだと思います。ところで、丹後の杜氏というのは辛抱強くて灘のほうで評判がよかったのですが、伏見でも多くの丹後杜氏が働いていまして、同じようにいい酒を造っていたのです。当時私共(キンシ正宗)の生産力は京都市内での一般的な量で、年間一升瓶で約三万五千本くらいだったと言われています。京都市内には100~150軒ほどの造り酒屋がありましたので、京都の町のお酒は全て京都で作っていたのです。量的に足らなくなって伏見に移ったようです。 編 酒の飲み方は今も昔も変わりはないのですか。 田 昔は外で酒を飲むことはあまりなく、ほとんど家で消費されていたと思います。居酒屋が一般的になったのはずうっと後のことなんです。酒の売り方も今のように一升瓶で売るようなことはなく、最近まで樽から直接量り売りというのが一般的でした。酒の小売屋さんは造り酒屋から樽買いして、それを水のばしして売るということをしていました。水を混ぜて美味しくして売っていた小売屋さんが儲けていたんです。今でもその小売屋さんが京都に二~三軒残っていますよ。列車で運ばれてきた酒を駅から店まで近くの農家に頼んで牛で運んでもらっていたそうです。近くの駅ならまだいいんですが、滋賀県のほうから運んでもらうこともあったそうで、滋賀県から一泊がかりで店まで来ると牛を引っ張ってきた人がベロベロに酔っ払っている、ということも日常茶飯事だったようです。まあ、それでもいい時代だったんですね。 編 酒は高級品だったんですか。 田 酒屋さんによりますと、昔は一日に1~2本程度が現金売りで後はツケ。でも、現金売りだけで生活費は出たそうです。盆暮れの集金分を5~10年貯めたら家が建てられたとか。大学出の初任給で10升くらいしか買えなかった時代の話ですけどね。大工さんの日給では1.8L瓶一本しか買えなかったようです。 編 貴重品だったんですね。 田 今でこそ巨大な蔵がたくさん建っていますが、昔は小さな造り酒屋ばっかりで、そんなに沢山は造れなくてそれなりの値段になっていたようです。その頃(2~30年前)は、酒屋さんの方からお金を造り酒屋に持ってきて、作ってほしいと頼みに来ていたとか。こちらの方から酒屋さんにうちの酒を置いてほしいと頼みに行っている今と大きく違いますよね。 |
お酒の今後は? | |
編 お酒の業界ってどうなんですか? 田 他の業種は技術が進んで良質のものを大量に作ることに成功していますが、日本酒の世界ではそれがうまくいきませんでした。商品価値を高めようと、米を磨く技術が発達しましたが、よく磨くことで、確かに「きれいな酒」にはなりますが、美味しさと、実は関連が少ないと思うのです。それよりも、水が大事なんです。それと、その水に合った酵母に麹。これが一番大事なんです。実は清酒業界も機械化、合理化を進めてきたのですが、それをお客様には美味しさをわかりやすく表現するのではなくて吟醸だの本醸造だの、ということを表に出して競争してきたんです。大手メーカーで最もよく売られているパック酒を一般の方はあまり贈り物にしないでしょう? 堂々とお客に出しにくいじゃないですか。ビールなんかはどんなに瓶にギザギザの傷があっても、ちゃんと拭いてテーブルにのるじゃないですか。日本酒をそういう風にテーブルに出して、楽しんでもらいたいんです。それが、小売屋さんを儲けさすために安く出したことが、かえって商品のイメージを下げることになってしまったんです。安売りしたことが、安物というイメージを作ってしまうんですから。 経済全体が非常に低迷な時期で、他のアルコール類は250ml135円の世界ですが、原料は安い。日本酒は国産の米を使うため、本来安くならないのですが。製造数量でいうと戦前くらいまで落ち込んでいます。昭和25年頃から48年頃まではどんどん造ればそれだけ売れた時代。今や日本酒のシェアは一割を切り、7%に近づいています。 編 ここにある『桃の井』の水は酒造りに使わないんですか? 田 ここで酒造りをしていた頃は使っていましたが、工場が伏見に移ってからは伏見の水を使っています。伏見もいい水が出ますんで。ここ桃の井ではビールだけに使っています。京都は昔からいい水がよく出ていました。それが、水道をつくるようになってから水を「もったいない」という存在にしてしまったんです。それまでは自然に存在する「ありがたい」ものだったんですがね。地下をゴチヤゴチヤ触るから地下水の質も悪くなってきた。京都もこれ以上地下を掘らなければ、まだまだ京都の水を守れるんですけどね。そうすれば、うまい酒もできますしね。 編 やっぱり、酒は水ですか? 田 水以外ありません。それと、それに合った酵母ですね。山田錦という酒米がいい酒を造るとよく言われていますが、山田錦がええ米やからええ酒ができるのではなく、麹を作る段階で一番使いやすいということなんです。どんなに小さく磨いても米粒が崩れないのが山田錦。山田錦は普通の米の1.5倍くらいの大きさがあり、35%まで磨いても形が残り、壊れにくい。普通の米なら七~八分水を吸うと割れるが、これは割れない。割れると米に表面積が増える。要するに岩か砂利かということ。岩ではお餅になるが砂利では団子になる。要は風味の問題で、強い直火で早く炊き蒸らしをかける。ここに極意があるんです。そのためには水をキッチリ吸わせておくことが必要。そういうことができるのが山田錦。今では、何日かかろうが一番うまいとこ探そう、という酒造りをしていくことで、お客さんに日本酒の美味しさを楽しんでいただけると思うんです。 そういう酒造りをして行かんとアカンのです。そこが命です。京都にもいいお米があるんです。京都府が再び造り出した「祝」というお米。京都でしか造られていません。10年もかけて美味しいお酒が造れるようになりました。 編 酒米造りは難しいと聞いていますが。 田 背が高く、米粒が大きいですから風に弱いのです。根をしっかり張らせないといけません。稲は、自分で倒れんようにちゃんと根を張っています。倒れんようにするにはその茎と根を太くしないといけないんです。水が潤沢にありすぎると根が深くなりません。そこで、どの時期に水を抜くかということが大変重要になってきます。でも、それは長年の勘に頼っているんです。 |
京都からの発信を | |
編 厳しい話が続きましたが、今後のビジョンのようなものをお聞かせください。 田 もう一遍、京都から発信したいですね。特にうちは京都の料理屋さんに可愛がってもらっているんですが、実は「京仕込」のあの香り高いお酒が料理に合わないんです。香りが高すぎて料理を殺してしまうんです。単独の商品としたら全く問題はないんですがね。私共としましては、基本的には京都の料理屋さんで可愛がってもらえるような飲み飽きしないお酒というものを今後も続けて行きたいと思っています。それはどういう酒かというと、本醸造のお燗をして適当な温度に近づくと一番美昧しくなるようなお酒です。焼酎やリキュールなどのいろんなアルコール飲料について京都の料理屋の料理に合うような、京都らしさを訴えるようなイメージのものを造っていきたいと考えています。 また、各種類問の競争、ビールと発泡酒、焼酎と日本酒とか、お米の文化やお米の良さを発揮できる文化をキープしたいですね。 トータルアルコール飲料を提供したいですね。昔のように日本酒だけを造っていればよかった時代と違い、今日のようにこれだけ多様化してくると、飲まれる方もキンシ正宗の看板を見て入ってきても他の酒が飲みたくなることもあるでしょう。いろんなものとぶつかって「最後にやっぱりこれが置いてあったね。」となるために、いろんな種類のアルコール飲料が必要になるでしょう。京都には、毎年五千万人以上の観光客が訪れているんです。 編 もっと大きくして、全国で飲んでもらえるようにしないのですか。 田 その点なんですが、全国展開する必要はなくなっていると思うんです。いい酒を造ろうとするとどうしても小さいスケールでないとできません。日本酒は、それぞれの地方においてそれぞれの文化と結びついて発展してきました。各地域にはそれぞれ固有の日本酒市場があるのです。ですから、どこそこは○○酒造さんという具合にそれぞれの地域に任せればいいでしょ。 |
焼酎に学ぶ | |
編 今、焼酎が人気ですが。 田 以前は、ビールか日本酒ということで焼酎は料亭にはありませんでした。私共がショックだったのは、何故焼酎?ということでした。でも、これだけ食べ物の味わいが増えるとその酒が美味しいということだけでなく、さっぱりと□の中を洗い流してくれる酒が好まれるということなんでしょう。お酒の税金も高いビールや焼酎が好まれるんですね。 編 品質がよくなったということでしょうか。 田 昔の芋焼酎は、芋の臭みだけではなく、特別の臭い匂いが特徴だったのですが、今では製法が工夫され、できあがった時点で甘い感じがします。四〇度のものでも甘いんです。焼酎のブームも安いだけではないんでしょうね。そういうところ、私共も学ぶべきだと思います。 |
京都府職員の皆さんへ | |
編 最後になりましたが、京都府職員に対して何かメッセージがありましたらどうぞ。 田 私共のようにこうして酒蔵を見せるところが沢山ありますので、先ずは体験してもらって日本酒というものを知ってもらいたいですね。宴会などされる時先ず最初に乾杯をされると思いますが、その時ほとんどビールで乾杯されているのではないですか。最初の乾杯だけでも日本酒でしていただきたいものです。京都市内には大手ビール工場はないんですから。私共の業界でも折りにつけお願いをしてきました。一番早く対応してくださったのが消防さんで、乾杯は必ず酒、最後まで酒のときもあるとか。それから、警察、京都市でもそのようになってきました。京都府庁の皆さんも宴会の最初の乾杯は日本酒でお願いできないでしょうか。それから、もうひとつは京都産の京野菜だけでなく、地元の京都人の作っているお酒をもっと大事にしてはしいんです。特に京都府が開発した「祝」という米で造られている日本酒があるのですから。 お酒を飲んだら車の運転をしないことは当然のことですね、絶対に。 |